マツノデザイン店舗建築株式会社 代表取締役 松野國一
Ⅰ.出生
熊本県玉名市に生まれる。
Ⅱ.少年時代
幼児期の頃から絵を書くのが好きで暇さえあれば、鉄人28号や月光仮面などのヒー ローを書いていたり、夜暗くなるまで戸外で鬼ごっこやカマクラというグループ遊び に興じていた。
少年時代は大変大人しく、目立つのが一番きらいな引っ込み思案な子供だった。でもなぜかスケッチ大会等では必ず入賞となり、ふと気が付くと壇上で九州大会の表彰状を受けていた。そのせいか逆に目立ち、注目され、皆から可愛がられた記憶が今も残ってる。
そんな私の個性を見抜いた父は九州産業大学に新しく芸術学部デザイン科が新設されたのに注目し、ここを私に薦めた。これが私の人生の方向を決めた大きなターニングポイントであった。ここから4年間の下宿生活が始まり、子供から大人への脱皮を自然にすることになる。
親の保護のもとぬくぬくと育ったぬるま湯からの自立と、自己の責任において行動 しその責任も自分で取るそんな気構えの学生時代だった。そんな姿を見ていた担任教授の大山先生は「松野、船場に面接に行け」といきなり
の命令。
「先生、船場ってどんなとこですか?」「日本一の店舗設計施工会社だ」「先生びびります」「一期生の模範となれ」「はい、わかりました」・・・
Ⅲ.船場時代
真新しいスーツで入社式、ここでも何百人の中で新入社員代表として答辞を読むこ とになった。また苦手な役を指示されたものだ。「でも未知の経験は必ず自分を強く大きくする」そう言い聞かせながら自分を鼓舞した。
「株式会社船場東京設計事務所勤務を命ずる」の辞令で東京本社勤務が決定した。見るもの、聞くもの、やるもの皆が新鮮で面白く、吸い取り紙のようにどんどん吸収していった。デザインの役割、デザイナーとしての考え方、店舗設計の進め方、お客様への接し方、などなど。本当にゼロからの勉強であった。店作りに関しては小さなお店から何万坪もあるショッピングセンターまで、メンズショップなどの専門店からイオンSCまで業種を問わず坪数を問わず色んな経験を積んだ。東京から始まり新潟出張所、東京本社、福岡設計事務所などを経験し、妻と子供も授かった。いよいよ30歳が近づいてきた。
Ⅳ.独立
父の影響を受けてか潜在意識の中に「男30にして立つ」という芽がだんだん膨らんでいた。独立するなら市場規模、人間環境、気候風土、明るい土地柄などを考慮して学生時代に馴染んだ福岡と決めていた。おりしも28歳のとき初めて転勤希望の募集があった。これぞとばかり福岡設計事務所への転勤願いを申し込んだ。幸い福岡では右肩上がりの成長期、意とした所に転勤が叶って心機一転、新しい環境での挑戦である。胸躍らせて妻と8ヶ月の子を連れて福岡行きの飛行機に乗り込んだのを今でも鮮明に覚えている。
福岡に赴任する間もなく朝から夜遅くまで仕事漬けの連続であった。元来仕事が生き甲斐という環境にいたせいか毎日が120パーセント充実の日々であった。ふと気が付くともう30歳になる5月がやってきた。「よし!この仕事を完成したらやめよう」と心に決めて所長に告知した。
「所長、この仕事が終わったら会社辞めます」「冗談やろ、ほんと?冗談やろ?なんか福岡に不満ある?なんなら東京本社に返そうか?」「何も会社には不満ありません。 30になったら辞めると決めておりました。ここまで育ててもらって逆に感謝しております」「次の改装工事のオープンが9月ですからこれが完了したら9月一杯で辞めます」
なかば強引に一方的に会社にお願いして最後の仕事に取り掛かった。普段通りに設計打ち合わせをしている中で、後の担当者の引継ぎもありお客の江藤社長に「エトウ様の仕事を最後に私は船場を辞めます。今まで色々お世話になりました」と報告をした。すると何で辞めるのか質問を受けたが私の動機に共感を受けられ、「松野さんわかった。そしたらこの仕事は船場ではなくて松野さんあなた個人に頼もう」「3000万円位かかるやろ」「あなた個人で仕事を引き受けてよ」「ありがとうございます。社長、でも待ってください!私は船場の社員です。船場の 仕事で来ています。気もちは大変有難いのですが船場を裏切ることは出来ません。それに今から独立しようとするのに今までお世話になった会社を裏切るような行為は自分に負い目を感じます。どうか船場で最後まで仕事を受けさせてください」「ウーン、わかった!おしいねー」
この会話は私の人生の生き方として一生忘れないだろう。
こうして無事オープンの日を迎え残務整理を済まし、机を整理して辞表を提出したが所長は辞表を受け取ってくれない。仕方ないから机に辞表を置いてその場を帰った。
翌日から今までの8年間の休息と妻への慰労も含めて一泊で別府へ旅行に行った。金に余裕があるわけでは無かったが今まで家族旅行を一回もした事ことが無くむしょうに行きたくなったのである。短い旅行ではあったが本当に楽しい一時であった。家に帰ったら同僚から電話で「松野さん探しましたよ」「東京本社が大騒ぎしています。東京所長が東京へ帰れとか社長室長が松野に会いたいので福岡に行くとか言っています。一度会社に来てください」「いいえ、もう結論は出ています。二宮所長に私の気持ちは伝えていますのでよろしくお伝えください」
こうして強引にも会社を辞めた。その後折り菓子付きの引止め工作やら熊本所長への昇格などの話もあったが、そんな話には目もくれず自由を謳歌しようとした矢先にまた同僚から電話があった。
Ⅴ.初めての仕事
「松野さん喫茶店を開業したいというお客さんがおられますが松野さん会って見ます?」と同僚の飯山君からの電話である。「船場では仕事しないの?」「何か大きい会社は駄目らしいです。そこで松野さんのことを話したら紹介してと言われましたので・・・」「ほんと、それではぜひ喫茶店をする人紹介してよ」。
こうして私はすぐ荒尾へ出向いた。話を聞いてみると人の縁に驚かされた。オーナーは入江さんと言われる。九産大の芸術学部デザイン科の出身で生まれは私の出身地玉名の隣り荒尾市である。しかも卒業後東京のグラフィックデザイン会社に勤務されていたが喫茶店開業のために生まれ故郷に帰ってきたばかり。親の土地200坪が国
道沿いにある。ここで喫茶店をする。ここまで決まっていた。その日のうちに意気投合し、すぐ現地調査と事業計画に取り掛かった。 初めての仕事なのになぜか今までと全く同じペースで仕事をしている自分に気づいた。
物件環境の背景人口調査、対象客層の設定把握、競合店分析調査、類似店現状調査、立地の特性、敷地の形状、国道からの視認性、国道からの誘導方法、から始まり事業計画、売り上げ予測、建築面積適正規模算出、適正客数算出、建物と駐車場のゾーニング、平面ラフプランなどのマスタープラン作りへと進んでいった。
一方オーナーは精力的にメニュー開発と近隣食べ歩きの日々である。店舗イメージ、平面プラン、イメージプランが浮かび上がってきたらイメージパースで入江さんと意識の確認や”想い”の摺り合わせをする。非常に重要な、そして気の抜けない工程である。厨房プラン、家具プラン、サインプラン、色イメージ、などなど出来上がりを想定してお客が満席で混雑している状態をイメージする。非常に楽しいひと時である。その後予算の算出、予算の調整のかたわら、建築確認の設計作業へと工程は進み、契約、施工、完成引渡しとなる。
完成オープンした日には、入江さんと大いに飲み明かしいつまでも感動を共有した。
Ⅵ.不渡り手形事故
その後、大手企業の外部設計スタッフとして仕事をする時期があった。そこの営業社員の檀君と気が合って共同経営を持ちかけられた。彼が営業、私が実務と仕事を分担してお互いの良さを出し合うのがねらいであった。順調に売り上げは伸びていきそれに伴って社員も8人に増えていった。でもそれに見合う利益が上がっている状態ではなく収支ぎりぎりを推移していた。そんな時大口の注文が入ってきた。中洲の飲食ビル全フローを新装する仕事で当時9000万円位 (現貨幣価値で1億8000万円位か)の受注高ではなかったろうか。檀君の営業活動の中から不動産業者の紹介で入ってきた仕事である。それが6000万円(現貨幣価値1億2000万円位)の不渡りを食らうとは誰が予測 しえたであろうか。
当時注文主は、福岡でも有名なレストランを経営中で中洲の一等地にテナントビルを建て、賃貸ビルの経営に乗り出した訳である。話せば一冊の本になるような実話だが、結末は色々な条件が悪い方に絡み土地・建物全てが他人の手に渡った。そのあおりを受けて私の所に振り出した6000万円の手形が全て不渡りになってしまったと言うことだ。今後の経営存続は不可能と判断し、事故後の対応を相談して最良の場所に軟着陸する事を決定した。「他人への迷惑は絶対掛けない」という強い決意で、まず第一に施工協力業者への債務完済を100パーセント実行する。第二に社員の今後の就職先を100パーセント決定する。その後自分たちの身の振り方を決める。その結果二人で負債を同額1/2に分け、それを独自の責任で返済していくという方法だった。決断を遅らせこのままだらだらと倒産を待つより勇気ある撤退を選び、他人への迷惑をかけることを最大の不名誉と考えた。熱意は伝わるもので銀行・両方親の支援を受けてやっとのおもいで協力業者への完済と社員の完全就職を見て新たにマイナスからの再スタートを切った。
Ⅶ.無我夢中
元来プラス思考で後ろを振り返らない性格上、ただひたすら仕事に熱中していた時期である。小さい仕事ほどミスをしないように万全を払い十分注意して事にあたった。なぜならそれは自分への戒めでもあった。其の甲斐あってかお客様からのクレームがほとんど無くなり少しずつ債務は少なくなっていった。この業界はクレーム産業とまで言われて必ず何かクレームがある業種とされている。クレームゼロ完成引渡しの妙味を知ったらこんなにやり甲斐の在る楽しい仕事は無い。多くのお客様からの支えにより今日まで仕事をさせて頂いてきた事への感謝で一杯である。宝石のエトウ、江藤社長も2代目に会社を譲り、私に引き継いでくれた。飯塚・福岡・小倉に宝石店3店舗とめがね店1店舗を展開している優良企業である。エトウ様は私が独立以来二代に亘りお世話になっている良き理解者でもある。二代目社長の自宅建築に関しても、身内のビル改装計画でも思い出せばいとまが無い。その二代目社長の発案で福岡本社ビルの計画が持ち上がった。福岡玉屋の前の店舗をビルに立て替える計画である。「松野さんあなたにこのビル計画を任せるから考えて」との有難い依頼であった。江藤社長の幅広い交友の中から私に白羽の矢を向けられたのはこの上ない幸せである。
9階建てのテナントビルは初めての経験である。現場も中洲という特殊な地域を考慮してあらゆる問題を想定し、事務所を東区から博多区に移転して万全を期した。「パリのエスプリをあなたに」のコンセプトで福岡にパリの香りがする空間を描くデザイン設計段階では楽しくもありわくわくもした。企画設計作業は順調に進んだのであるが、しかし建築着工するとやはり近隣から「家が震動して数千万円の古伊万里が割れそうだ、どう落としまえつける!」とのクレームで直ぐ話を聞きに行くと何の振動も無く、また随分現場から離れていて工事の影響を受ける場所では無かったり、また別の所から「挨拶に来ていないので法律で解決出来ないことをしてやろうか!」とか、いやがらせやおどしに悩まされ問題解決に向けて奔走する日が続いた。しかし完成までは忍の一字でただひたすら建築工事の
完成に向けて邁進した。
かくして各関連の人たちの協力のお陰で無事予定通り一年間の集大成が形になり完成オープンを迎えた。高い山に登りついた達成感と安堵感、それに緊張から開放された思いでしばし余韻に浸った。
Ⅶ今思うこと
これまでにも多くの出会いとその時々のさまざまなお引き立て、ご支援に支えられ知らない間に幸せな今日があることに、感謝の気持ちで一杯である。独立後今年で33年目、本当にアッという間の出来事であった。お客様に叱られて、お客様に支えられ、お客様から学び、なんとか人としての生き方が出来るようになった。そんな私が今思うことは、多くの店舗会社の中から私を選んでいただいたお礼に、必ず繁盛するお店を作ること!そして多くの感動を与えること。これが私に出来る恩返しではないかと考える。
その後、独立40年目、ふと考えるとこの仕事をしてもう48年、あっという間の人生である。ゼロエネルギー環境を目指して「一般社団法人 ソフトエスコ福岡」を有志で立ち上げ早や5年。その後産学官連携の実践として九州大学教授と連携して霊芝の効用を知り、前立腺肥大の予防食品「ドクター霊芝9049」の開発、発売(会社にこにこ家族を立ち上げ)を実践中。
平成28年6月11日、縁あって龍馬の精神を受け継ぎ地域興し人間力向上を目指す「全国龍馬社中 福岡龍馬会」を立ち上げ、本業が何かわからなくなっている。
また最近は市内のクライアントの要請で福岡ウォーターフロント計画や福岡アイランドシティ整備事業商業施設ゾーンの提案、熊本合志の大型ショッピングセンター計画など、多忙の日を送っている。
どこかで何かのお役に立てばうれしい限りである。
毎朝神棚に向かって「世のため人のため」と手を合わせているがいつになったらその祈りが神に届くのか、そして本物になるのか・・・。